ひとりごと

日々、思っていること。

逃避

社会では常に前進を求められます。

停滞は許されません。

そんな中、「逃避」することはどうなのでしょう。

 

頑張らなければいけない局面があります。

他の人も、死にものぐるいで頑張っています。

応援してくれる人は、頑張れ、頑張れと鼓舞してくれます。

 

そんな現実を目の当たりにし、多くの人は「頑張らなければならない」と奮起するでしょう。

絶対に諦めない、諦めたらおしまいだ、そんなたくましい根気で粘ることもあるでしょう。

 

しかし、それは本当に正しいでしょうか。

確かに根気は大事です。何事もめげずに続けるのは難しく、それをこなすのは素晴らしいことです。

 

ただし人間には体力の限界があります。そして、精神力にも限界があります。

 

体力の限界は来れば自然と形として現れます。

そしてそこで初めて「あぁ、限界に来てしまったんだ」と気づくのです。

 

しかし精神力の限界は形として現れないことが多いのです。

精神的な限界に近づくと、人は自らを制御できなくなります。表情を作ることすら困難になり、五感は衰え、物事を正確に判断できなくなります。

生き物が持つ、何よりも貴重な「感情」は姿をなくし、外からの見た目は人の形をした人形さながら。もはや幸せも不幸せもなくなります。

そうして精神力が底を尽きた人間は、最悪の決断を自ら下してしまうのです。

 

 

 

「お前の代わりは誰だっている」

そうなのです。だから、あなたが頑張る必要はないのです。

頑張れる、他の人が頑張れば良いのです。

 

仕事や作業をする「あなた」の代わりは誰だっています。しかし、両親から命を授かり、人として生まれ、今日ここまでを生きてきた「あなた」の代わりは、どこを探そうといないのです。

 

逃避をすることは後退ではありません。自らを救い、良い方向へ導く意味では前進なのです。

 

どうか日々自分を大切にしてください。

小さな逃避を忘れないでください。

諦めない勇気はもちろん、諦める勇気も必要です。

 

人生は結果が全てです。

「良い人生を送る」という結果を出すべく、最善のプロセスを考えましょう。

 

 

 

結果

社会では結果を出すことが求められます。

 

社会人は学生とは違い、毎日が試験と言われるほどシビアなのです。

その日の自分の仕事次第で、明日の一日が変わります。

いくら自分が好きなことを仕事として取り組んでいる人であっても、辛い日々になることが多いでしょう。

 

よく「結果が全て」という言葉を目にします。

一見、大変緊張感のある言葉に見えます。

実際、過程でどんなに努力をしようとも、良い結果が出せなければ意味がないという意味合いで使われることが多いようです。

 

しかしこの言葉は多角的に見ると、少しニュアンスが変わってきます。

良い結果が出せなければ過程は度外視するのであれば、

良い結果が出るのであればどのような過程を過ごしても構わないという事になります。

 

人間の多様性が話題になる昨今、一人一人に合う教育ステップというものが重要視されるようになっています。

その人が持つ長所や短所に合わせてプロセスが組まれるため、その進行過程は人の数だけ生まれます。

 

必要とされるのは、今自分自信がどのような課題を抱えており、その課題解決に当たってどのような力を使えばよいかということを理解する事。

今の自分でできることもあれば、多少殻を破らなければならないこともあるかもしれません。

「賭け」に出ることもあるでしょう。安全策だけでは上手くいかない時、リスクを覚悟して挑むことも少なくないはずです。

 

そんな過程を過ごし、出した結果を「全て」として評価されるのが社会です。

 

スキルアップの道は誰にでもあります。

その道をどのように歩むのか、それは、あなた次第です。

 

 

 

努力

努力は人を裏切らない、とよく聞きますが、一方で

努力は人を裏切る、という言葉もよく聞くようになりました。

 

前者のほうが一般に知れ渡っていますが、後者はそれに対するアンチテーゼ的なものと言えるでしょう。

例えば、長年努力をしていたにも関わらず目的を達成できなかった場合に使われるようです。

果たしてどちらなのでしょうか。

 

私は結論から言えば、努力は裏切らないと思います。

 

確かに努力は、すればするほど目標に近づくとは限りません。

それで達成できることもあれば、できないこともあるものです。

しかしこの考え方自体、一元的な見方故と考えるとすれば、どうなるでしょう。

 

そもそも努力をして得られるものは、広く浅いのです。

例えば、長距離走のタイムを縮めるべく、明確な目標を設定して努力をした人がいるとします。

姿勢を気をつけてみたり、呼吸法を変えてみたり。いろいろな方法を試すことでそのノウハウを理解し、技術を身につけていきます。

 

では、その努力を介して得られるものとはなんでしょうか。

正しい姿勢かもしれませんし、整った呼吸法かもしれません。

しかしそれ以前にその人は、「自分の欠点を見つけ出し、それに関して試行錯誤をし、解決に導く思考」を得たのです。

これは長距離走に限らず、全ての事柄に直結します。

 

そして、仮にその正しい姿勢や整った呼吸法を持ってしても、目標を達成できなかったとしましょう。

その場合、これまでの努力をした日々は無駄となり、結果努力は裏切った、と言えるのでしょうか。

 

前述の内容とも重なりますが、目的のための努力は、目的にピンポイントで直結することはありません。

その人の人間的なステータスの向上に作用するものであり、目的を必ず達成できるという保証は無いという前提のもとで人のスキルに影響します。

 

目標は達成できなくとも、その努力が与えてくれたことは必ず身に付いています。その点から見れば、努力は決して裏切ったりはしません。

 

期待していた結果が出る事なく、挫折を感じる人もいるでしょう。

それでも、努力をしたことで、獲得したものは絶対にあるのです。

辛くとも、今回のことで何が得られたか、それを探るのが大事です。

 

広く浅い能力を一つ一つ身につけて行きましょう。

努力はすればするほど、様々な可能性が見えてきます。

そして良くも悪くも、どのような結果になるかわからない。それがまた面白いところでもあるのです。

 

 

 

 

 

 

理解

人は自分の長所についてあまり語りたがりません。

なぜなら、その人の人間性を判断するのは他者になる上、無意味に自分のハードルを上げることになるからです。他にも理由はあるかもしれませんが、大半はこれでしょう。

 

それでは、誰が自分の長所を説明してくれるでしょう。

答えは、誰もいません。

あったとしても表面上の社交辞令であることがほとんどです。その言葉に深い意味内容はありません。

 

自分の長所を最も良く知り、最も詳しく説明できる人

言わずもがな、それは自分自身に他なりません。

 

他人に否定をされ、罵られ、傷つけられるのが社会です。

生き残って行く過程では、年長者や同期のみならず、後輩までもがあなたを蹴落とそうとします。

仲間という概念はほぼありません。競争を目の前にしたとき、友情は脆くも崩れるのが普通です。

冒頭でテーマにした「自分の長所を語る」という行為は、足を掬われる原因になりかねません。それを計算した上で行うのも手ですが、非常にリスキーと言えるでしょう。

 

そんな中で、あなた自身を最も正当に評価する人、それはあなたしかいないのです。

自分が持つ本当の長所も本当の短所も、全てあなただけが知っている事。

アウトプットの必要はありません。ただ自分自身をしっかり理解し、弱い自分も、強い自分も全部ひっくるめたあなたを、しっかり認めてあげることが大事です。

自分を見失うということは、自分を見る観点がどれか欠落した状態を意味します。

そんな気持ちになりそうな時、ふと思い出してみてください。本当にあなたに良いところはありませんか。あなただからこそわかる、あなたの隠された一面はどこですか。

 

自分という武器を最大限に活かして生きていけたら良いものです。

たまには武器を磨いたり、どんな状態にあるか、くまなくチェックすることも大事です。

唯一無二の、貴重な存在であることを忘れてしまう前に。

 

自信

自信を持たなければいけない!なんてことはありません。

 

自分に自信がなくても生きて行けます。

それなりに、社会で活動できます。

 

ですが、

その一歩先に進みたい!

そう思ったとき、やはり自分に自信を持つ事は必要です。

 

自信を持って進む事は、危険がたくさん伴います。

周りからの批判は強くなり、ステージが進む毎に適応していかなければなりません。

進んだ分、失敗すれば戻ってしまう事もあります。

 

そう考えると怖いものです。

停滞は許されません。常に前進することを求められます。

意思とは無関係です。自分のペースでいけるとは限りません。

 

しかし、勇気を出して、自信を持って踏み出したその一歩が、希望をもたらす可能性を十分にあるのです。

進む方向だって、一方だけではありません。前もあれば左もあるし、右もあります。

どんな方向も、進むだけで世界は変わります。

前がだめだったら、左に進路を変えればいいんです。それでもだめなら、右を試しに見てみればいいんです。

 

気づいたら、止まっていた頃の自分の位置が遥か彼方に見えるかもしれません。

 

一度きりの人生です。挑戦の価値は十分にあります。

主張

人は、考えていることを主張しなければなりません。

しかし、主張しすぎるとかえって嫌われる事もあります。

 

その線引きってどこなんでしょう。それがないんですよね。

結局、究極を求めると「空気を読む」ことに徹するほかないのです。

この集団の中で、どこまで自分の意見を言っていいか。常にアンテナを張りながらその発言のタイミングを伺うわけです。

 

あまりに場の雰囲気に合わせすぎると言いたい事も言えずにその場が終わってしまったり。悔しいですが、これでよかったんだ、と自分に言い聞かせることが多いのも事実です。

 

主張と協調の境界線なんて、あったら教えてほしいくらい。わかっていたら、こんなに遠慮することもないでしょう。

やはり「越した事ない」精神で発言を控えてしまうのが現状です。口だけの人間だと思われることはよくないかもしれませんし。

 

しかし、溜まったものは吐き出さなければいけません。

形のないものですが、こまめに出さなければ、見えない老廃物として、体に溜まって行きます。

愚痴を言うのは悪いことではありません。どこにいたってストレスが溜まる社会です。誰だって日々不平不満を抱えて生きているんです。それを放出せずして普通の生活は遅れません。

 

ただ、一度に出す量と、出すタイミングは大事です。

それはお互い様。それは協調。

やりたいことやって、やらせてあげて、そうやって人間関係を作っていきたいものです。

 

期待

信頼や期待はしすぎない方がいい

そう思ってました。

 

でも、危なくなると人を信頼せざるを得ないんですよね。

一人の力の小ささを思い知ります。

 

同時に、精神的な弱さも感じました。

結局危機を感じると人に判断を委ねることがあるということです。

 

家族や友人は別にして、社会は結局一人です。

誰かが助けてくれると考えていると結局その甘えた分、自分に跳ね返ってきます。

 

世を渡るために必要なのは、常に自分で判断し、迫られた選択に対応する能力。

間違えることもあるでしょう。正解の道を選べない事も多いはずです。

でもそうし続けるうちに、だんだん自分の進むべき道が見えてくることでしょう。

それはまっすぐの道なのか、曲がり角なのか、行き着いてみないとわかりません。

 

大小関わらず人生の岐路は誰にでも訪れます。

目の前の状況を見るべきか、後先どうなるかを重要視するか、それは人次第。

 

ただ、どのように考えて進んだとしても、幸せか不幸せかは結果論です。

その結論を進む前に導ける人なんていないんです。

自分が信じた道を、信じたように歩くしかありません。

 

人のせいにしている暇などないのです。

自分が選ぶ道を、自分が決めたペースで歩きましょう。